清水房縁起
清水房は身延山久遠寺の塔頭寺院の一つで、西谷の中にあります。
永仁元年(1293年)、日蓮聖人の孫弟子にあたる肥後阿闍梨日像(にちぞう)上人により開かれました。
正式名を「龍華樹院 清水房」といいます。
日像上人は、臨終間際の日蓮聖人から京の都に教えを広めるよう託されました。その悲願を達成すべく身延山にて七日七晩加護を祈念したところ、満願の日に清水が湧き出しました。
以来この水を「龍華水」と呼び、坊は「龍華樹院 清水房」と名付けられ、現在に至ります。
途中、実教坊、妙福坊、光精坊を合併しました。
現在の清水房の本堂は、富士川町(旧増穂町)青柳に在ったお寺を移築してきた物です。
日像上人について
文永6年(1269年)下総国(現在の千葉県)に生まれました。
7歳の時、日蓮六老僧の一人、日朗上人に師事しましたが、その後日蓮聖人の弟子となりました。
この時「経一丸」の名を賜り本尊を授与されました。
日蓮聖人が亡くなる時に、日蓮が達成する事のできなかった京都への布教を託されます。
その後、日朗上人のもとで肥後房日像と名乗り研鑽を積みました。
そして永仁元年(1293年)、25歳の年に京都への布教を決行。
京都で布教することは困難を極めましたが布教は功を奏し、主に京都の有力商工業者の信者が増えていきました。
その後、他宗の圧力等などで流罪となり京都を追放されたり、許されたりを3度繰り返しながらも京都の布教に尽力され、
上洛して28年目、3度目の京都追放の後に天皇のお許しを得た日像上人は、法華堂を移して妙顕寺を開きました。
妙顕寺は足利将軍家の祈祷所ともなり、揺るぎない地位を獲得しました。